会長就任にあたって
山田富秋(松山大学)
会長就任依頼の連絡をいただいた時、私の念頭にまっさきに登ったのは、学会設立の発起人の一人である故藤本浩之輔先生であった。2024年には本学会が発足から30年を迎え、発起人の一人として会長に就任するのは、おそらく私が最後だろうという理由から、会員のみなさんにはしばらく昔の話におつきあいいただきたい。
藤本先生のことを語るには、当時の私が置かれていた状況を少し説明する必要がある。私は学会発足当時、児童文学者の古田足日先生(増山均・汐見稔幸・加藤理編『ファンタジーとアニマシオン-古田足日「子どもと文化」の継承と発展』2016,童心社参照)も発足に関わった、県立の山口女子大学文学部児童文化学科に所属していた。当時は国公立大学で唯一の児童文化研究を看板に掲げた学科であったせいか、子ども文化に関心のある学生たちが北海道から沖縄までの全国から集まってきていた。私の担当科目は児童社会学であり、現象学的社会学とエスノメソドロジーの観点から、子どもの文化にアプローチしていた。
この間の詳細は拙稿「児童文化学から子ども社会学へ」『子ども社会研究』15号(2009)学会創立15周年記念号を読んでいただきたいが、県立山口女子大学は時代のニーズに合わせて、児童文化学科を廃止し、1993年に社会福祉学部を新設することになった。その代わり、最後の卒業生を送るまでのあいだのフィナーレを飾るように、高名な研究者を毎年集中講義に招聘する予算が組まれたのである。そのトップバッターが藤本浩之輔先生であった。そしてその翌年は、本学会の初代会長に就任する片岡徳雄先生をお呼びした。お二人と宇野登の共著である『子どもの世界』(1966年,三一新書)は、この時代に子ども研究を志す研究者にはまさに必読書であった。
本人にはご迷惑であったかもしれないが、学会発足一年前の1993年に先生の集中講義を一週間にわたって拝聴し、授業終了後には夕食をともにしながら、先生の提唱する「子ども自身が創る文化」とは何かを議論させていただいた。授業の中で私が惹かれたのは、「ヤンマ釣り」である。先生の精力的なフィールドワークの成果として、日本の各地で変容をとげながらも、トンボを子どもの集団で捕る高度に洗練された技能が伝承されていたことがよくわかった。(矢野智司「文化創造者としての子ども-藤本浩之輔の教育人類学」『臨床教育人間学』1号,1999,19-25)そして、その遊びを授業で説明される時、自分自身がまるで実際に遊びに参加しているかのように、楽しそうに語られるのである。
そして翌年の1994年に学会が発足し、学会創立記念大会を藤本浩之輔先生が主催された。新しい学会の誕生にふさわしく、参加型のワークショップ企画も多く、わくわくした経験であったことを記憶している。そんな先生が1995年に亡くなる前に構想していたのが「子どものコスモロジー」(鵜野祐介「エピローグ」藤本浩之輔編『子どものコスモロジー』1996,人文書院)であったという。鵜野氏によれば、どうやら先生は学会の名称を「子ども社会学会」ではなく「子どものコスモロジー学会」にしたかったらしい。広く知られているように、先生が考えた子ども文化の構成とは、大人文化から独立した子ども自身の文化と、大人によって支配され管理される子どもの文化があり、最後に、子ども自身の感性と内的宇宙から生み出される「子どものコスモロジー」が来る。鵜野氏はここに藤本浩之輔先生の子どもに対する「畏敬の念」を読み取っている。この30年間の本学会の歩みを振り返れば、子どものコスモロジー以外の二つの子どもの文化については、多くの研究成果を積み重ねてきたと言えるだろう。とすれば「子どものコスモロジー」は、これからも私たちがバトンをつないでいくべき問いではないだろうか。